社長の独り言
著書出版のお知らせ

昨年(平成23年)夏、はじめて西伊豆戸田(ヘダ)の港祭りに招かれた。

交通の便がいいとは言い難い。

沼津港から1日2回の高速艇で30分、もしくは伊豆箱根鉄道の終点「修善寺」駅からバスでおよそ1時間。バス便とて1,2時間に1本、日に6本くらいしかない。

この不便さが幸いしてか、夏の一時期を除けばおそらく数百年の昔と同じ穏やかな漁村の佇まいのままであろう。

晴れた日、波頭の先に裾野から頂上までの富士山が浮かぶ。駿河湾と長い砂嘴で区切られた戸田は隠れ港にふさわしい。150年前、大風による艦船の沈没でこの地に半年ちかく逗留していた5百人のロシア人たちも同じ景色を眺め、故国への想いを馳せたことであろう。

提督プチャーチンは何を思って新船が建造されるまでこの海を見つめていたであろうか。

港祭りは不幸にも故国に帰ることなく、病死した二人のロシア人水兵の供養祭ではじまる。宝泉寺の老住職の枯れた読経が蝉時雨の庭に流れていく。

寺から港への帰路、民家の軒先で東伊豆地方の風習と聞いていた季節はずれのつるし雛が揺れていた。

その時、私の頭のなかに幕末、戸田の港に暮らす家族、幸やサーシャ、美津たちが映像となって動き出した。

拙著「つるし雛の港」は幻の映像に導かれるごとく生まれた。

本書では一部名前は変えてあるが、ほとんどは史実に基づいて織りなすロシアの若者と村娘の淡い恋物語である。

 

本の詳細は以下のリンクをご覧ください。

http://www.amazon.co.jp/%E3%81%A4%E3%82%8B%E3%81%97%E9%9B%9B%E3%81%AE%E6%B8%AF-%E4%B8%AD%E5%B0%BE-%E3%81%A1%E3%82%91%E3%81%93/dp/4286125084

 

森の別荘 ― レーピノ

お金と時間と気力がたっぷりあったら、いつかこんな別荘を手に入れ、住んでみたいと夢みている家がある。

 

渋谷の東急デパート本店並び“”Bunkamura“でロシアの画家<レーピン展>が開催されている。

日本で催されるロシアの美術、工芸展に出かけることはほとんどない。

モスクワ、サンクトペテルブルグ滞在中に何回となく出向いているし、地方都市の美術館もそこそこ覗いている。観光シーズン期のエルミタージュやプーシキン美術館などは別としても、広々とした館内で対象物に近づいたり、離れたりしながら、好きなだけゆっくりと鑑賞できた。

日本では、こうした催し物は大概込み合っている。所蔵する美術館の目玉品も十分に展示されるわけではないだろうと思うと、わざわざ足が向かなかった。

 

しかしレーピン展の予告チラシを見たときから、これははずせない、とチエックしていた。

同時代のクラムスコイの<忘れえぬ人>ほど有名でないが、<ボルガの船曳き><思いがけず>や<ムソルグスキーの肖像>くらいは馴染みがある。

が、私の目的は他にあった。

 

,8年前、取扱っている日本製スキンケアのサンクトペテルブルグ販売店を訪れた。

仕事がひと段落して、社長のザハルチェンコ・スベトラーナがドライブしよう、と

誘ってきた。彼女はいつも強引だ、というより生粋のロシア人女性。相手の希望や都合を尋ねることもなく、自分がしようと思うことは相手も望んでいること。そう信じている。仕事ではないし、こちらも彼女に任せた。

最近買ったという日産の新車が北を目指す。1時間走っただろうか、距離にして40キロぐらい。そのまま直進すればフィンランド国境を突っ切ってしまう。

道の両側からは緑の大木がせまり、まるで木の葉のトンネルに入っているよう、真上の空も狭い。

突然、ハンドルを右にきり、脇道を10分ほど走ったところで止めた。

「ここ、どこ?」

「レーピノ」

「ふーん」

ニューリッツ族の別荘分乗地か…くらいに思った。

それにしても回りは草原と森しか見えない。この先は車が入れないということで舗装されていない小道を森に向かって歩く。草むらの木の根っこにキノコの姿がチラホラみえる。

やがて、周りの木々が倒され、開墾された平地が開けた。

三角屋根がかさなった1軒の家が建っている。

スベトラーナが玄関脇の小窓で小銭を払う。ここは博物館?

中に入って立てかけてあるイーゼルやテーブルの絵の具箱をみてやっと気づいた。

レーピノ、ここはレーピンが晩年住んで多くの作品を生み出したという家。

だからレーピノと呼ばれている、ということに気づく。

多角形の広くて明るいリビング、白い枠の大きな出窓からは森の木立が手に取るように近い。自然の音しか聞こえない。

部屋にはレーピンに関しての功績や年表のような説明など何もない。

今でもプラリと散歩にでているだけ。しばらくしたらここで絵筆を入らせる本人に会えるのではないか、そんな空気のまま、窓辺に午後の陽が差し込んでいる。

 

いつか、こんな所で、あんな家に住んでみたい。

夢の実現を夢みて、何枚かの写真を撮ってレーピノを後にした。

今でも、レーピノの森の中の家は強烈に印象に残っている。

 

レーピン展のチラシを見て、あの家と住人について、もう少し知りたくなっていた。

レーピノというのは現代の呼び方で、当時はベナーチ。家はベナーチ荘と呼ばれていたということ。

2300円の図録情報は私にとって価値がある。

 

真鶴の午後のララバイ

7月の第二日曜日の午後、真鶴で小さなコンサートが開かれた。

モスクワ在住の歌手、マキ奈尾美さんからのお誘いだった。毎年、夏休みで日本に一時帰国した時に、父親でカンツォーネ歌手で画家の間紀徹さんと親子コンサートを開いているという。

会場は真鶴のお父様のアトリエ。

今まで何度かお誘いを受けたけれど、機会を逃していたので今年は案内を頂いたときから日程に入れておいた。

真鶴は東京熱海を往復の都度、車や電車で通過しているのだが、駅に降り立ったのは40年ぶりぐらい。駅舎も駅前もその頃とあまり変わっていない。

「真鶴の丘、絵画館」といっても個人のアトリエなので駅前地図にはのっていないし、駅員さんに尋ねるも住所から方向しか示してもらえない。途中2回も電話で確認してしまった。駅前のお店のある通りを半島のほうに進む。坂道を下がり、教えられた脇道の坂を上る。箱庭の中を歩いているようだ。狭い道で車とすれ違うが人の姿はみえない。どの家も高い塀か、植え込みで囲まれている。タクシーを拾わなかったことを後悔しはじめた頃、やっと目的の建物に着いた。

すでに開演数分前で、50人ほどが椅子を寄せ合っている。会場はそれで満員。

やがて、グレーのスーツのお父様と、ブルーのドレス姿の奈尾美さんが登場。日本の背景、日本語の世界で奈尾美さんの姿を見るのは不思議な気がする。

彼女は、駐露カタール大使夫人であり、4人のお子さんの母親でもある。モスクワで出会った子供たちは母親似だが、アラブ系の顔立ちだった。大学生の息子さんがいらっしゃるとは見えないほど奈尾美さんも若く、エネルギッシュだ。

 

会場の大きく開いた窓からは真鶴漁港や貴船神社が見下ろせる。

コンサートは奈尾美さんのピアノ伴奏でお父様が朗々とイタリア語で歌い上げるカタリやサンタ・ルチア、日本語で情感を抑えて歌う城ヶ島の雨。奈尾美さんの包み込むような豊饒のアヴェ・マリア。ロシア正教の鐘の音が流れる演出。目を瞑るとモスクワの風景が浮かぶ。

イタリア、日本、ロシアそれぞれの国の音色が重なり合い、溶け合って真鶴の空に流れる。

休憩にはクッキーと紅茶をいただきながら、贅沢な午後のひと時を過ごした。

 

たまたま隣り合わせた女性は、日本企業のモスクワ駐在員の奥さん、夏休みで一時帰国していた大磯の方だった。熱海に温泉饅頭を買いに行くということで、車で送ってくださった。お礼に名刺を渡しておいたが、彼女の名前を聞き忘れていた。今日、メールと一緒に添付の写真が届き、はじめて彼女の名前を知った。数時間を過ごしただけだったが感じのよい女性だった。

文が人を表すというけれど、メールは彼女の人柄の伝わる女性らしい文面だ。

 

数日後、奈尾美さんからもお礼状をいただいた。

手書きの美しい文字、さりげなく正しい日本語を遣いこなしている文章に見ほれた。

私達の年代で海外に長く生活し、特に国際結婚している女性たちの日本語の品位に心底から感心することがある。

ともすれば埋没してしまう故国の言葉、異国に暮らすからこそ、日本語を意識することが彼女たちの矜持であるのだろう。彼女たちに遥かな敬意とエールを送りたいと思う。

 

「作家」気分

今もってピンとこないが、9月に小説がでることになった。

自費出版で友人、知人に配るというのではなく、ISBNコードを入れ、書店やネットの販売ルートで配本、印税も支払われるという。

「作家」=私の仕事は事実と作り話を織り交ぜ、規定の枚数書くだけ、最終商品に仕上げ、売るのは編集者や出版社の仕事と、開き直った。

幕末のロシアからの黒船のお話を縦糸に、ロシア人准士官と戸田村の娘の恋物語を横糸に織り上げたとしても、問題は縦糸だ。縦糸は史実であり、研究者は沢山いらっしゃる。小説はもとより、研究書も資料もあり、いい加減に流すわけにはいかない。最低限のことはおさえておかなければ。

 

5月、連休明けに『取材』と称して、一人で戸田を訪れた。

去年3度訪れる機会があったが、風景と温泉と海の幸が楽しみで、史実はおまけだった。

沼津―戸田―土肥を日に2回往復する高速船ホワイトマリンで沼津港から30分、2時過ぎに馴染みの戸田港に到着。「戸田ふるさと研究会」会長の山口さんが港で出迎えてくださる。

車で造船資料博物館やロシア人、日本人が共同で建造した日本初の洋式船「ヘダ」号の作業場といわれる牛が洞をあらためて案内していただく。前回まではなんとなく聞いていた説明も今回は気合を入れる。随所で質問もする。当時の戸田村の方言を確認するため、山口さんのお知り合いの朗読会メンバーの自宅にもお伺いした。

翌日は、前日のコースを一人徒歩で回り、実際の距離感や風景、畑や山の草花の特徴なども手にして確かめた。できるだけ150年余前の当時の空気を体感したかった。

現存していないと思った廻船問屋「勝呂」家は、一部がそのまま残されており、当主は沼津で開業医をしていらっしゃるという。また現在は当主の妹さんがお住まいになっていらっしゃるとのこと。小説では「勝呂」の姓を使わせていただいたが、差し障りあると失礼にあたるので別姓に変えることにした。

戸田の取材の他、ロシア正教のお祈りの仕方を何人かの人に尋ねた。これまでモスクワやサンクトペテルブルグだけでなく、訪ねたロシアの都市や町の教会で礼拝に出会ったことが数十回はあるだろう。真似事で頭にスカーフをかぶり、ロウソクをささげ、十字をきったこともある。しかし正確に文章に表現するとなると、果たしてどのような順序や形で真似ていたのか、まったくわからない。

小説を書くというテーマを与えられ、森羅万象見ているようで、実のところ何も見ていないということが、よーくわかった。

1855年(安政2年)、戸田から引き上げるロシア人たちと一緒にロシアへ密航したという実在の人物、橘耕斎を別名で登場させた。ロシアで最初の和露辞典の編纂にかかわり、17年後に日本に帰国している。彼のお墓が、高輪の事務所から歩いて数分の「源昌寺」に葬られていることを最近知った。別名とはいえ、登場人物なのでお参りをすませた。

「作家」としてやるべきことは、一応やったつもり。

あとは、編集者や出版社の仕事だ。

私は、穴にでも入って、身をひそめていたい。

熱海-ソチ まぼろしの姉妹都市提携

 

街中の坂道を沿うように走る川の両岸の桜が散った。

サンビーチ公園のツツジがそろそろ咲きはじめるだろう。

今年は時期を外さず、見に行こうと思う。

 

1月、地元中心の7、8人の新年会で隣に座した市の観光課の女性課長Aさんが話しかけてきた。

「中尾さん、ロシアビジネスをしているのよね。サンビーチにソチ市の市長が植樹したツツジがあるけど知っている? 今年からサンビーチ公園の整備工事がはじまるけれど、あれは残しておきたいね。当時の関係者はほとんどいないので撤去なんてことにならなければいいけど」。

ソチ市といえば2年後、2016年の冬季オリンピックの開催地。黒海屈指のリゾート地に世界の目が注がれる。

翌日、デジカメ片手にサンビーチに植樹されているというツツジの撮影にでかけた。

サンビーチは徒歩でも、車でも日常的に通行しているが、ソチ市の市長さんが植樹していたという話は聞いたこともなければ、目にしたこともなかった。有名な「お宮の松」の西側だという。

2、3度行き来してやっと見つけた。

濃い緑の葉が地面からこんもりと茂った大振りのツツジだ。

正式名はオオムラサキツツジというらしい。

「ロシア(旧ソビエト連邦)ソチ市長来熱海記念植樹 1973522日」と脇のプレートにある。

1973年といえば、私が大学卒業した頃か。大阪万博の3年後だ。

A課長の協力で、図書館の資料室で当時の熱海新聞の記事を調べてもらう。

驚いたことには、ソチ市長が熱海来訪の数ヶ月前、ソチ市側から熱海市と姉妹都市の提携をというラブコールをもらっていたことがわかった。ソチ市長の来訪は、最終返答を求めてのものだった。来訪日を控え、失礼のないようどのような回答(断りの)をなすべきかという熱海市側の戸惑いの記事が連日掲載されている。

結果として「NO」としたが、市側はロシア(ソ連)の機嫌をそこねないよう旅館で1してもらい、最大限の歓待をして首尾よく帰国してもらった様子。

熱海市の関係者一同、安堵した様子が記事からも手に取るようにわかる。

ソ連は共産国家だからとか、社会党議員から持ちこもれた話だからというのが、断る理由だったようだ。

40年後の現在、社会党も霧散していれば、共産国家ソ連も消滅している。

もし、姉妹都市提携をしていれば、オリンピック開催に便乗して熱海市を世界に売り込める最大のチャンスであった。

サンビーチのオオムラサキツツジは、政に携わる人たちの世界観の鈍さの象徴として、残しておくべきだと思う。


 

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社長もいろいろ……


 私の知り合いには、何故か事業の規模、中味、男女、国にかかわらず“社長さん”が多い。

ホワイトカラーのいわゆるお勤め族の知り合いは珍しいほうだ。

 

今から35年前の80年代初め、かつて龍土町と呼ばれた西麻布交差点と青山墓地のあいだくらいの商店と住宅が混在した地域で、3人の社長が夫々に起業した。

一人は私、あとの二人は私より4~5歳年上の男性。仮にAさん、Bさんとしておこう。

私の会社は企業の翻訳、編集を生業とし、Aさんは海外から医療器械を輸入し大学病院などへ売り込んでいた。Bさんは企業の新商品開発のコンサルタントが業であった。社員はわたしのところが女性二人、狭い事務所で机3つに作業台、本棚をおいたらコピー機を置く場所がない。

当時はファクシミリもデータ送付もなく、コピーをとってオリジナルを納品していた。機械の取扱い説明書の海外向け編集が主なので1日に500枚ぐらいのコピーをとるときもある。

たまたま女子社員がAさんの会社のドアに「コピーサービスします」という張り紙をみつけた。Aさんの会社が3人の中で一番はぶりがよかった。1日にせいぜい数枚のコピーしか必要ないのに立派なコピー機が置いてあり、オフィスのスペースも広く、社員も4~5名いて「会社」らしかった。当時Bさんは、Aさんのオフィスに机一つで間借りしていた。社員もいなくてAさんの秘書が代行で電話の取次ぎをしていた。

 

業種は夫々全く違うが、3人の会社は結構仲がよかった。お花見、忘年会に新年会、よくわからない飲み会、社員旅行も合同でやった。

数年後に私の事務所は赤坂の現在のミッドタウンの並びに引っ越し、家賃が高騰したバブルの時代に現在の高輪に移った。Bさんも大手企業の顧客をがっちり掴んで、ミーティングルームもある六本木のオフィスに移り、さらに現在は社長室もある本郷の外資系マンションだ。Aさんだけが西麻布の事務所にそのまま居たようだ。

お互いに自然と疎遠になっていたが、昨年の秋、「3人とも還暦過ぎたことだし一度、皆で西麻布で会おうよ。」とコンサルタントの先生であるBさんから声がかかった。日時を知らせるということだったが、その後電話もメールもなかった。

とりたてて会う用件もないのでそのまま忘れていた。先日「やっと、Aさんが了解したようなので、あらためて会おう。」というBさんからのメール。くわしくは書いてないがAさんの会社は数年前に倒産したらしい。Aさんが躊躇する気持ちはわかるが…。倒産なんて恥でもなんでもないが、男性はそうはいかないのかも。

当日、Aさんは店の前で待っていた。居酒屋からBさん馴染みのスナックへと移るが、話はつきない。最初は緊張していたAさんも、そのうち気を緩めて、倒産にいたる事情を昔の仲間に話しだした。

今まで規模に係わらず成功した企業、倒産した企業の社長さんと身近に何人も会ってきた。

私自身このまま進めば倒産か!という危険区域まで至ったこともある。

倒産する社長には共通項がある。特に男性は。人間的には魅力あり、お人よしで優しい。気が小さく、見栄っ張りだ。自信過剰で夢を追いやすい。Aさんも面倒見が良く親分肌だった。

創業当時、一番規模が小さくAさんのオフィスに間借りしていたBさんが、結局3人の中では一番成功したといえる。成功の原因は企業という生き物を分析し、手中に治めることができたからだろう。それも一つの才である。

夜も更けてきたので、Aさん、Bさんに失礼して席をたった。男性二人で30数年前の”青春“を語るのもよいだろう。

Aさん、Bさん私にとって「ビジネス」とは何だったのかと思う。

 

一部上場の社長に「ビジネスって、一言でいったら何ですか?」と質問したことがある。

返ってきた答えは「責任」。そう、背後に数千人の社員、その家族を背負っていたら当然だろう。

現地法人のロシア人女性社長に同じ質問をした。「チャンスよ!」という。自由経済へのトビラが開いた若者には、そう見えるのだろう。

 

過日、還暦を迎えた印刷会社の社長から名刺入れサイズの小箱をいただいた。

中には社長の顔を刷り込んだ金太郎アメとアラレ餅の子袋が入っていた。

「感謝感激アメ、アラレ」という紙が添えてある。



人生いろいろ、社長もいろいろだ。


 

 

 


 

俳優座「カラマーゾフの兄弟」

正月以来、籠り気味の生活がだらだらと続いていた。関心ある「満州」や「ハルビン」ものを図書館で探してみたり、ブックオフに引き取ってもらう前に読み残しの本を申し訳なく開いたり、事務所の片付けをしたりと内向きの作業ばかりしていた。知り合いがセッティングしたいくつかの食事会に誘われ顔を出したが、これも受動的である。視力が衰えたのか夜が更けて文字を追うのはきつくなってきた。テレビを見ているうちに眠りに落ち込んでしまう。こんな生活が3週間近くなると、さすがにウツウツとしてくる。
最寄駅の掲示板でドストエフスキー作「カラマーゾフの兄弟」のポスターを見た。
年明けから六本木の俳優座で昼夜の2回公演、明後日が千秋楽である。演劇に詳しくないので出演者は誰も知らない。普段は目に留まらない、目に留まったとしても関心もないポスターが気になったのは、ダレ気味の日常に“活”を欲していたのかもしれない。
平日の夜、重くて、理屈っぽくて、暗いイメージの19世紀ロシアものを3時間半も観劇する人が果たしてどれだけいるのだろうと思いつつ、座席の確認をしてみた。
「前売券はすべて公演前に売り切れています。当日券が十数枚ありますが、開場の1時間前に並んでいただきます。売り切れた場合はご入場できない場合もございます。」という返事に動揺した。父親殺しをテーマに人間の贓物までも白日のもとに引きずり出し、神の存在を狂気のように問い詰めていくロシアものにこれほど人気?があろうとは。
会場は満員御礼、熱気に溢れている。ほとんどの観客は事前にチケットを手に入れ、心待ちにして出かけて来たのだろう。当日ポスターを目にし、地下鉄で2駅目だからという理由で腰を上げ、散歩気分でフラリとでかけてきた者とは観劇の覚悟が違うようだ。
遠慮がちに席に着いたが、3時間半は退屈どころか短く感じた。
本は読んでいるのであらすじは承知していた。ドミトリー、イワン、アレクセイの3兄弟は、はっきりとしていたが小説では私生児で影のようなスメルジャコフ(真犯人)の存在が今までは掴めなかった。演出家中野誠也の解釈が作家の意図と一致しているかどうかは不明だが、今回の観劇で「そうだったのか」と、解けない宿題が解決した気分になった。
午後10時近く、観劇を終えた夜の六本木は香港のようにけばけばしい光のなか、日本語でない言葉が飛びかい、まるでこちらが異邦人。カラマーゾフの兄弟の余韻の置き所を求めて東京タワーに向かって歩いた。飯倉片町の交差点付近までくると光も人の流れもなくなり、闇が濃くなっている。左向こうの洋館は日本に帰化したロシア人アクショーノフさんの病院、道をわたり左折すればナターシャさんの経営するロシア料理店「ミンスクの台所」、まっすぐの先の右側はロシア大使館。10ほど歩いたところでロシアと繋がったのだ。
雪が舞いはじめ、タクシーに手をあげる気になった。

カ・リ・ス・マ ファッションリーダー

カリモフ大統領の娘Ms.グリナダ・カリモヴォの存在について書こうと思っていたら

北朝鮮の金正日総書記の死と後継者の三男、金正恩氏のニュースが飛び込んできた。

ウズベキスタンと北朝鮮を比べるのは豆腐と厚揚げを比べるくらい似て非なるものであろうが、胃袋に入るにつれ「独裁政権」として同化していくような気がする。

北朝鮮には行ったことはないが、先日訪れたウズベキスタンでも大統領とその一家が一般庶民とはかけ離れた富と、人事をふくめ国の行く末を独断で決定する絶対的な権力を持っていることは、この国の政治やビジネスに係っていくと一目瞭然であろう。しかし国民の不満の声が特に聞こえないのは、経済的に成長していることが大きい。表立った民族や宗教上の紛争もなく、人々はそれなりに生活を謳歌しているように見える。今のところ安定的発展を遂げていて「独裁万歳」というところ。華を添えているのが、Ms.グリナダ・カリモヴァだ。

Ms.グリナダ・カリモヴァは40歳。ニューヨークでファッションを学び、「グリ」というブランドでファッション、アクセサリー、インテリア小物などの商品開発を展開し、自身のブテックも経営、女性誌「L’OFFICIEL」の編集長であり、その他、各種芸術関係や慈善団体の代表者を務めている。180cmはあるモデル並みの容姿、西欧仕込みのファッションセンス、メデイアに登場しない日はない。頭の回転も良さそう。いつ、どんなイベントでもペーパーなしで、人心を掴む挨拶ができる。プライドが高く、他を圧倒するオーラを放ち、人は自分を中心に動くということが当たり前に身についている。

歴史の流れからも、組織の迅速な成長のためにも、独裁が全て悪だとはいいがたい。

文化、文明の発展、国や会社のような組織の改革、発展のためには一時的に独裁的なパワーは必要である。問題は独裁の限定と着地点であろう。

既に20年続いているカリモフ政権もそろそろ着地点を見定める時期に近づいているのではないか。 その鍵はMs.グリナダ・カリモヴァにも託されているであろう。

彼女が今後、父親の権力を引継いでより政治的な活動をはじめるのか、また引継いだとしてもより民主的で公平な国づくりに邁進するのか、はたまた政治からは手を引きファッションやアートの世界でその才能と発揮していくのか予測できない。

個人的には最後の選択をしてほしいと思う。中央アジアのファッションリーダーとして世界のファッション雑誌のグラビアを飾り、世界に通用するアジアのアーティストとして名を残してほしい。

何故ならタシケントのまぶしい陽光や人々の笑顔の中に“口にしてはならない遠慮”と“権力者への阿り”が見え隠れしているから。ウズベキスタンの国民からこの翳りが取り除かれるか否か、それはMs.グリナダ・カリモヴァの選択にかかっているともいえるだろう。

オアシス都市―タシケントへ(1)

ウズベキスタンの首都タシケント、成田間には週2便、直行便がある。

JALのモスクワ、成田の往復ですら週2便である。旧ソ連圏やトルコ、東欧に入る通過点として利用されているのだろうか。採算がとれているとも思えないが、事実上の独裁政権の政治的判断によるウズベキスタン側のフライトであろう。

タシケントまでなら9時間弱、時差が4時間というのは体力的に助かる。

午前10時成田を出発して6時間もすると、眼下には地球創生以来、誰も足を踏み入れたことはないであろう黒い岩山が刃を天に向けて連なっている。地球も宇宙の惑星にすぎないことを実感する未踏の風景が広がる。

やがて岩山の刃がココア色の砂山に変わり、白いベールの雲の下に褐色の流砂が舞っているのが見える。

緑の畑が開けたかと思うと飛行機は高度を下げ、中央アジアのオアシス都市タシケントに着陸。10月下旬とはいえ、東京より気温は高く、乾燥した空気のなかで午後の日差しがまぶしい。

日本側は総勢7名、ウズベキスタン基金による「Style UZ.文化・芸術祭」のゲストということでウズベキスタン大使館の書記官マンスール氏に案内されVIPとして入国。

タシケント映画祭の審査員の伊藤監督、「東京100年写真展」を企画したカメラ財団の谷野理事、ファッションショウを行なうカミシマチナミ氏と彼女の会社の社長とアシスタント、それに取材ということで日経の若い記者宮本氏と私のメンバーだ。念のため書いておくと宮本氏と私は取材の手配はウズベキスタン側にしてもらうが、旅費、宿泊費とも先方の負担は断っている。

日経では取材先の招聘は禁止されているそうだ。当たり前のことであるが。私の場合は、やはり先方負担となると、書きたいことが書けない、言いたいことが率直に言えないというブレーキが心情的にかかることを避けたいためである。「先方の招待には素直に乗っておくのが、礼儀ですよ」という助言もいただいたが、礼儀は重んじつつも物書きをめざす端くれとしては国であれ、人であれ取材先にはどこにも貸し借りを残しておきたくなかった。

今回と、次回の「独り言」では、年に1回の国を上げての文化・芸術祭だからこそ接することができた事実や印象をまじえて感じたままを書いてみたいと思う。

 

今までそれなりに海外に行ってきた。私なんかより、もっと沢山の国を訪れた人は大勢いる。でも中央アジアのウズベキスタンを訪れたことがないというのであればぜひお勧めしたい。

韓国、中国、ベトナム、タイ、インドへと進出してきた日系企業で中央アジアに触れたことがない企業にはぜひ一度、視察にいかれることをお勧めしたい。

多くの魅力と可能性が芽吹きはじめている。

真夏以外は気候よし、料理よし、野菜、果物が豊富、治安よし、伝統文化歴史あり、街は清潔、親日的、物価は安く、若い女性はおしゃれできれい、教育レベルが高い、イスラム教の世界であるが戒律がゆるいなどなど。

欠点というか、日本人がついていけない点もあげておこう。

計画性がない。変更が多い(融通性があるというべきか)。一般広報が下手(知る人ぞ知ることが多すぎる。細かい計算をしない(お釣りがマッチ箱一箱だった)。時間の観念が希薄。

西欧文化やブランドに憧れすぎ。マスメディアの価値観がそのままの自己の価値観になっているなどなど。

日本に来たウズベク人が日本社会のルールの多さと厳しさ、些細なことでも不注意でルールを外した場合の責任追及には驚いたという。通訳のチムール君が「ウズベクにはストレスやうつ病の人はいないし、電車に飛び込む人もいない」といっていた。話半分としてもうなずける。すべてがゆる~いのだから。



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旧市街のバザール:ドライフルーツは美味しい

コスモス(秋桜)日記

コスモスが好きだ。

地元の地方紙に≪メルヘンの里≫として、コスモスの群生写真が紹介されていた。

知らなかったが車で30分足らずのところにあるらしい。早速、気恥ずかしいようなネーミングの≪メルヘンの里≫を目指し、ナビを頼りに車を走らせた。

この辺りではないかという地点に着たが観光的な車も、人影も見えない。畦道を拡張した車道をウロウロし、畑仕事をしている小母さんに声をかけてみた。

「メルヘンの里って何処ですか?」

「すぐそこですよ」と少し先を手で示した。

200メートルぐらい先の野菜畑や稲の実った田んぼの一角にコスモスばかりが咲いていた。

コスモス畑の前の農家にトラックや耕運機が止めてある。コスモス畑の持ち主だろう。

野菜や稲を作らないで、200平方メートルばかりの一区画にコスモスを植えている。この家の誰かが、きっとコスモスが好きなのだ。そして新聞に記事を書いた記者さんもきっとコスモスが好きで思わず≪メルヘンの里≫というタイトルにしたのだろう。

見渡すかぎりの田んぼと畑に相変わらず人影はなく、われわれだけが贅沢にコスモスの群生を鑑賞し、もと来た道を引き返した。

その1週間前、仕事関係の知人の誘いで秋田県の五城目を訪れた。

森林資料館のある高台の五城目城からは稲刈りの前の稲穂が黄金色の海のように揺れていた。途中の道にはやはりコスモスが咲いている。公共交通の便もなく、資料館を訪れる人は年間500人ぐらいという。コスモスの咲く今の時期でも訪れる人は数人であろう。

五城目のコスモスは植えた人もいなければ、鑑賞する人もいない。勝手に咲いて勝手に散っていく。

“可憐な花”のイメージのコスモスだが、実は強靭な生命力を持っている。

どんな貧弱は土や、乾燥地帯でも種を風に飛ばし繁茂していく。他の植物の栄養分まで吸い取って成長する野生の花だ。茎は子供の腕くらいの太さにもなるという。

メキシコ原産の野生の雑草に<秋桜>と名づけ、俳句や短歌に詠まれて秋の季語にもなっているが、植物図鑑の扱いは春の桜に比べたらかなり格下だ。

しかしコスモスはまったく気にしている風はなく、夏が去ると出番を忘れず、風に飛ばされた地で、より逞しくより美しく咲きほこる。

そんなコスモスが、やはり好きだ。

 



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五城目城からのコスモス



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「メルヘンの里」のコスモス

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