社長の独り言
● わくらばの港町 ― ウラジオストク

夜明けとともに、客船“飛鳥”はウラジオストクの港に着岸した。短時間滞在の為、ビザは不要。預けておいたパスポートを受け取り、次々と港に降り立った。全長260メートルの客船が難なく着岸できる港湾施設、目の前はシベリア横断鉄道駅。船着場と鉄道駅が直結している便利さは、最近のことではない。1912年、明治最後の年、与謝野晶子も敦賀からこの港に着き、シベリア鉄道で夫、鉄幹の待つ巴里へ向かっている。街中にある極東大学の門の脇に晶子の碑があった。周りの草木は、もう色づきはじめていた。

 

坂道を下って港にいたる勾配の具合は、高台から眺めると、私の記憶にある外国の都市、サンフランシスコに似てなくもない。もし革命がなかったら、いやウラルから東で白軍が勝利していたら、この港湾都市も軍港、商業港、あるいは観光港として地の利を生かし、多くの可能性を花開かせていたであろう。ソ連崩壊から20年近くになる。ロシアは、専らヨーロッパ部のみとしていたが、そろそろ私の関心もシベリア、極東が視野に入ってきた。ウラジオストク初訪問には、ひそかに期待があった。

しかし、バスから見える人々は元気がなく、表情も沈みがち、沈黙の苛立ちを感じた。オイルマネーの暴落、中古車輸入の規制、外資の引揚などの影響を諸に受けているのであろうか。海岸には職のない働き盛りの人達が所在なげに三々五々集まっている。

グループ別の観光オプショナルツアーにでた“飛鳥”800名の乗客から、主催者へのブーイングはひどいものだった。ウラジオストクの観光会社では、おそらく町中の全ての観光バスや、日本語ガイドをかき集め対応したに違いない。しかしそれでも間に合わない。日本と同じサービスでランチのとれるレストランなど、ないに等しい。予備席を入れて50名余を、入れ込んだ我々のレストランに、トイレは一つ、ウエイトレスは2名しかいない。それでも我々の金角湾クルーズと市内観光はまだよかった。乗客の大多数が希望したシベリア鉄道試乗ツアーはひどかったらしい。チャーターした列車が時間通りに運行できない(当たり前)。シベリアの大草原を垣間見るつもりが、汚い家や廃墟のような工場ばかりだったとか(ウラジオストクはシベリアではない、極東である)。このような文句、非難は、この街に気の毒というより、失礼ではないか。現地の事情を無視して、たった半日間だけ非日常的なことを押しつける日本の旅行会社が責められるべきである。(後日、参加者にお詫びのレターが次回の企画とともに届いた。)

“飛鳥”乗客のブーイングは無視したとしても、60万都市の発展の様を期待しただけに衝撃であった。薄暗くなり始めたウラジオストクの街から“飛鳥”は静かに離れた。やがて曳航船も引き返し、街は見えなくなっていった。

 

 

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2009/8/28 “飛鳥”から見るウラジオストク駅

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