社長の独り言
● ブルーライトヨコハマ

今年は、横浜開港150年ということで、春から市をあげてのイベントがくりひろげられたらしい。閉幕ちかく、「海のエジプト展」という展示会に行ってみた。2400円の入場料は高いと思ったが、実際には見ごたえがあり、久々に満足した展示会だった。

「ヨコハマ」は、かって大流行した石田あゆみの「ブルーライトヨコハマ」のメロディとともに、卒業間際にやっと入社した会社の「倒産」の思い出と重なってくる。

 

就職した社員4~5名の大阪の貿易会社は、当時の「東洋綿花」(現トーメン)という商社から独立した社長が、ロシア(ソ連)にガラス瓶製造ラインを売るのが主な仕事だった。

機械や契約技術者を現地の据付現場に次々と送り込んでいた。が、現場で開梱してみたら錆びや破損があったり、据付けた設備が計画通り稼動しなくてクレームがきたり、なかなか問題も多いようであった。その頃、入社2ヶ月足らずの新入社員に1週間の横浜出張の命がでた。

ブルーライトヨコハマに行かれる!それだけで幸せだった。しかし会社で指定された宿は寂れた繁華街の木賃宿のようなところだった。トイレも風呂も共用で、「使用中」の札を掲げ、中から鍵をかけて使用した。経営する家族の声も聞こえてくる。訪ねる会社は、近くのバス停から30分以上かかる丘陵地の工場だった。仕事は毎日、毎日何百枚という設計図面の整理であった。一度、ロシア人の検査官が通訳と訪ねてきて、図面をチエックしていった。「公安が来ているな。」と誰かが言った。毎日工場の会議室に篭って図面整理ばかりしているのを気の毒に思ったらしい年配の事務の女性が「たまには早く切り上げて、横浜を案内してあげるよ」といった。彼女に連れられてはじめて中華街、元町を廻り、夕闇の山下公園、外人墓地を散歩した。体格の立派な彼女が、ブルーライトヨコハマを口ずさんだ。そうだ、ここがあの歌のブルーライトヨコハマだ。今、私は歌の場面に立っている。

 

大阪に戻って1ヶ月もしないある日、昼近く出社した社長が社員の顔を見つめながら挨拶した。「皆さん、すみません。この会社は倒産しました。本日で締めます。後処理のため経理のOOさんだけは残ってください。会社にあるもので入用なものは持ち帰ってもらって結構です。」と言い切った。他の人は今日の来る日を薄々感じていたらしい。私を含めて4名は身の回りのものを持って会社を出た。丁度昼時で、あちこちのビルからサラリーマンやOLがせわしなく昼食のため蠢いている。夏の厳しい日差しの中、私達は心斎橋駅の喫茶店に入り30分ばかりお茶を飲んだ。[じゃ、お元気で]と別れて以来、会うことはない。

私はわかった。会社というものは、社長が挨拶すれば消えてしまう、はかないものだということを。でも、ブルーライトヨコハマに行かれたことだけはお得だった。

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