社長の独り言
● レクイエム ― 空の彼方に

モスクワのシェレメチェボ空港に降り立ったのは1年と数ヶ月ぶりだ。こんなに間をあけたことはなかった。体力が多少心配になったこと、若いスタッフに引き継いでいきたいこと、また用件のあるロシア人たちが、こちらから訪ねなくとも気楽に来日してくれるようになったこと、などが理由といえば理由だ。しかしこの間に、モスクワで10年近くも見知った男性が2人、世を去っていた。

 

昨年10月、仕事を終えたところにモスクワ現法の社長タチアーナから電話が入った。

「運転手のサーシャが、3日前から行方不明なの。サーシャは、夏に欲しかったオートバイをやっと手に入れ、バイクのツーリングに参加して、ヤロスラブリ州に出かけたの。23日で、大勢の参加者が集まる大会が行われたらしいけど、割り当てられた4人部屋に朝になっても姿を見せず、バイクだけがおいてあったの。今はそれ以上、わからない。」といって電話はいったん切れた。地元警察や主催者、モスクワから駆けつけた知人たちによって捜索活動も始められた。会場近くの川べりで水につかったサーシャの遺体が発見されたのはそれから2日後のことだった。ヤロスラブリの警察は外傷がなかった、といって事故死と判定、遺体は解剖されることもなく葬られた。日ごろの彼の言動や、性格を知る者には、納得のいかないあっけない死であった。

10年近く、かけがいのないスタッフとして働いてくれた。倉庫の管理、配送、集金、買い物、見本市の準備や片付け、空港への送迎、なんでもサーシャに頼んでおけば大丈夫だった。2年前から彼のアシスタントとしてジェーニャという若い男性がはいったが、無口でサーシャの指示のみをおとなしくこなしていて、顔も思い出せないくらい印象は薄かった。

混雑する到着出口の先頭で「ナカオサン、カックレチット?(中尾さん、飛行中いかがでした?)」といって重いスーツケースをヒョイと持ち上げてくれたのは、サーシャでなく、今まで自分から日本人に声をかけたこともなかった内気なジェーニャだった。サーシャが亡くなって、ジェーニャは一人前になりつつある。

 

コンスタンチン・クリメェツはソ連時代から指揮者として生きてきた。白いヒゲ、太い胴回り、やさしい目、赤い鼻とほっぺ、赤い帽子と服を着たらそのままサンタクロースのおじさんだ。

彼もやはり音楽関係の仕事では、タチアーナの古い仲間だ。私もタチアーナを通して、知り合ってから10年余になる。一昨年、彼が癌に侵されていると聞いてから、亡くなるまで半年もなかったように思う。奥さんはずっと以前に亡くなっているが、結婚している娘がいた。

一部の芸術家を除けば、ソ連からロシアに移行した時、アーティストたちが生活の落差を一番まともに受ていた。コンスタンチンの入院や治療は、本来ならば娘が見なければならないが、彼女も子供を抱え、旦那の収入も少ないらしく、経済的に父親である指揮者を援助できる状況になかった。見かねたタチアーナが、彼の入院費や薬代を支払っていた。

亡くなる数週間前から声も出なくなり、意識も戻らぬまま逝ってしまった。お葬式が済んで、娘が父親の部屋を片付けていた時、小さな金庫がでてきた。暗証番号を探るべく、生年月日、部屋番号、パスポート番号など色々試したが金庫は開かなかった。しばらくして娘は、タチアーナの携帯番号の下4桁に数字をセットしてみた。見事に当たり金庫は開いた。中にはタチアーナが立て替えたより多い額の現金が入っていたという。

                                    合掌

 

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2010210日午前820分:マイナス15度モスクワの夜明け

 

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