社長の独り言
被災地-塩釜-を走る

「この辺り住宅地で、浜辺まで家があった所です。家の土台だけ残っているでしょう。」教官が車の路上研修で説明してくださるが、1週間前にハンドルを握ったばかりの仮免初心者としては、左右の景色なんて見る余裕はなく、ひたすら正面を見つめ、しがみつくようにハンドルをにぎっている状況だ。それでも瞬間的に左右に目をやると夏草が茂った平地にコンクリートの塊が見え隠れしている。ネットで探した塩釜の自動車学校の『熟年合宿コース』に入校した。同じコースに入校したのは私一人。合宿生はホテルに4~5人いるが、皆20代の若者。朝から夕方まで彼らと一緒に運転実習や学科をこなしていくのは正直きつかった。

そろそろ休みはじめた脳細胞や反射神経をたたき起こさざるをえない。細胞や神経も突然のことで、さぞかし驚いたことだろう。特訓のかいもあり2週間余で卒業証書を手にした時は、さすがに感激した。

被災地にあたる東北太平洋側のほとんどの自動車学校が休業のなかで塩釜の自動車学校は41日から再開していた。きっと高台にあるのだろうと推測してきてみたところ、学校も宿舎のホテルも海から数百メートル離れているだけで、海抜ほとんどゼロ地帯。地震、津波の被害を諸に受けていたが、津波が10~20メートルに達した東隣の石巻、西隣の多賀城に比べれば1~2メートルですみ、甚大な被害には至らなかったとのこと。松島湾の250以上におよぶ島々が防波堤の役目を果たしていた。授業の合間に入った喫茶店で地元の人の会話に耳を傾けると、「まだ、誰それは行方不明だよ」「誰それは、誰それを助けようとして流されてしまった。」「家は住める状態でないので子供は親戚に預けている。」とか、非日常的な状況をまるで日常的な事のような口調で話していた。「でも、3ヶ月以上たって、みんなの表情、変わってきたね。被災者の表情じゃなくなったよ。」という声も聞こえた。 ~被災者の表情でなくなった~ ということは、現実に被災を受け、被災地で生活してきた人にしか言えない言葉だろう。

 

被災地に滞在した20日で、いろんな職業の日本の男性の姿が目立った。いつもは存在すら意識しなかったのに。塩釜市街ではまだ半分くらいの信号機が壊れたまま。主要な交差点では警察官が旗と笛で交通整理をしている。背中に「神奈川県警」と書かれたタスキを掛けている。塩釜市の交通整理は神奈川県警の担当で、市内に宿泊場所が確保できないため2時間近くかけて山形県からバスで通っているとのこと。宿泊しているホテルには一般客もいるが、復興支援隊のいろんな団体や研究者らしい男性も多い。彼らは朝早くホテルをでて、夕方戻ってくる。動作がきびきびしていて一様に日に焼けたいい顔をしている。仕事は大変だろうが、使命感を持って働いている感じがする。仙台から石巻までの仙石線に乗ってみた。正確には高城駅までしか開通していないのだか。日本三景「松島」は途中駅である。日曜日の午後、普段であれば女性を中心の観光客でにぎわっていることだろうが、普通の観光地とかなり違う雰囲気だ。男性客が多い。

グループであったり、一人旅であったり、年齢はさまざまであるが地図とカメラとリックサックでスニーカーなのが、ほぼ共通している。仙台行きの車内は8割がこのような男性達だった。

被災地でボランティア活動をするわけでもない。大震災は普通の家庭があって、普通の会社に勤めている男性たちの心にも、時間を作って被災地を訪れてみたいという「なにか」を生じさせたのであろうか。

塩釜は寿司で有名だった。ホテルの近くの「すし哲」という店に入ってみた。寿司職人の握り方は名人芸をみているようだ。きっとこの街には誇り高い、プロの寿司職人が沢山いるのだろう。今まで食してきた寿司のなかで最高に美味しかった。震災から50日目に開業したという小体な店だったが、早目の時間とはいえ、客は最後まで私一人だった。ケチケチしないで、店の景気づけに「特上」を注文すれば良かったと後から悔やまれた。

 

初めての運転で、被災地を走った2011年の夏は、忘れられない。

 


自動車学校からの景色
【自動車学校からの景色】大型量販店と山の間に、山の半分くらいの高さの”がれきの山”が今も残る。

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