社長の独り言
幻の≪アタパラカフェ≫

≪アタパラカフェ≫とは熱海パラダイスを略したネーミングである。

 

海抜250メートル、熱海市街を眼下に見下ろす絶景地にあった。

熱海城を右手に通称頼朝ラインから伊豆スカイラインに通じる道筋の途中、アクセルを一気に踏んで急勾配の脇道を登りきる。ナビにもでていなかった道。

あたりは趣をこらした別荘や、会社の保養所が山沿いの細い道に張り付くように点在している。山霧や海からの靄がかからない晴れ渡った日には、正面の十国峠の展望台を頂点に、そこから伊豆山の稜線をつたい、ゆるやかな弧が真鶴半島をなぞって相模湾に落ちていく。振り返ると光る海原には初島が、間近に見える。

登りきった脇道は300メートルも進むと行き止まりになっている。

≪アタパラカフェ≫は、ほぼその行き止まりにある。いや、5年前まであった。

コンクリート打ちっぱなしの3階建、1階は駐車場、2階が広いテラスとカフェになっている。3階は住居。

駐車場に続く階段の入り口に≪アタパラカフェ≫のプレートがなかったら、2階にカフェがあるとは道いく人は誰も気付かない。そもそも行き止まりの道を、1日何人が通るだろう。近所の人が犬の散歩で通るくらいである。

 

遠州に住む両親が相次いで亡くなり、実家をより東京に近く、海と山の眺められる場所に移そうと不動産会社の担当者と熱海の山間を車で走っていた。たまたま行き止りの道に入り込み、空いている駐車場で車の向きを変えようとバックした時、≪アタパラカフェ≫のプレートを見つけた。

昼近くでもあり、気になったので車をそのまま駐車場に入れ、急な階段を上がりガラスのドアを押した。海も山も道路からみるより、大きく視界に広がる。

テラスに面してテーブル席が数席、中ほどを4~5段上がってカウンター席がある。BGMが流れ、バラやユリの洋花が豪奢に生けられている。お客は誰もいない。店は開いてはいるが、はたして営業をしているのか。予約が必要(?…)あるいは会員制のカフェなのかもしれない。

声を掛けると奥から「いらっしゃいませ」という声とともに女性が小走りに出てきた。

 

オーナーのMさんとの出会いだった。

Mさんは、東京の新聞社の文藝出版部で働いていた編集記者だ。数年前に熱海に引っ越し≪アタパラカフェ≫をオープンしたとのこと。ご主人は、大手広告代理店にお勤めで、

Mさんが毎日熱海駅まで送り迎えしている。あとでわかったことだがお二人の経歴上、

≪アタパラカフェ≫は新しい情報やイベントを求める人、あるいは安らぎを求める人の「大人の隠れ家」的存在である。街中から車で4~5分足らずで味わえる非日常な空間を求めて、旅館の女将やレストランのマスターが休憩時間にハンドルを握り急坂を上がってくる。

Mさん、カフェオープン前に東京の専門学校へ通い、コーヒーの淹れ方、ケーキのつくり方を勉強したという。

周辺の別荘族が気分転換に美味しいコーヒーやケーキをもとめてぶらりと立寄ったりする。

東京から来たというアーティストや、編集関係者もいた。

≪アタパラカフェ≫は交通が不便というより、車がなければ行けない、しかも道は行き止まりであるが、いつのまにか熱海で知る人ぞ知るカフェになっていた。

 

5年前、Mさんは「8年半やったからアタパラは閉めるの。情報を得たし、地元のしりあいもいっぱいできたのでこれからは街中で活動したい」。といって2年後、店も住居も売却して街中のマンションに引っ越していった。

Mさん曰く

「カフェの経営がやりたいとか、ケーキつくりが好きというわけではないの。

東京から熱海に引っ越して、熱海のことを知りたかったから。それにはカフェはいながらにして情報があつまる場所でしょ。やるからにはプロとして本格的なコーヒーを淹れて、プロとしてのケーキを出さなければいけないので、勉強したの」ということ。

今、Mさんはカフェ時代の情報、人脈を生かして熱海の活性化の陰のプロデューサーとして存分に活躍している。私は、Mさんの腰巾着のようにときには情報のおこぼれに預かっては楽しんでいる。

≪アタパラカフェ≫には新しい買い手がついたとのことだが、夜も明かりは点いてないし、店が再開される気配もない。

Mさんのもとに多くの個性的な人が集まっていた熱海パラダイスは今では幻のカフェとなってしまった。

 

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戸田に眠るロシア水兵

img_0002「戸田」とかいて「ヘダ」と読む。
沼津港から高速艇で30分、公共交通機関の陸路は伊豆急行修善寺駅と戸田をむすぶ1日何本かのバス便だけである。人口3500人余の戸田港は一方だけが駿河湾に面して、三方は岬と山に囲まれる隠れ港だ。安政元年、大地震と津波に襲われ、沈没したロシア軍艦「ディアナ」号の代用船建造に、時のロシア提督プチャーチンが戸田港を選び、頻繁にあらわれるようになった西洋の軍艦や商船から見つけられず、幕府の影響も少ない地で密かに作業をすすめて500数名の仕官、水兵を無事にロシアに帰還させる。その決断と実行力はすごい。そのプチャーチン提督の計画を後押しし、実現させたのは戸田の船大工や住民であった。
静岡県の出身で、20年近くロシアビジネスに携わってきたが、戸田村の話はぼんやりと聞いたことがあったぐらいだった。「戸田ふるさと郷土研究会」の代表の山口さんからメールをいただくまでは、特に関心もなかった。戸田の有志何人かが、戸田とロシアの関係を埋没させまいと、手弁当で活動しているようだ。熱海在住で、ロシアと仕事をしている人という情報を得て、ぜひ一度戸田へ来てください。というお誘いを受けた。
ロシアと関係あり、戸田と比較的近い伊豆半島の付け根に住んでいるといってもビジネスだけの人間が、幕末の江戸とプチャーチンの話や日本の造船技術の発達について説明を聞いても猫に小判である。以前紹介した「来日ロシア人研究会」のメンバーにも声を掛けてみたところ、永らく研究されていて、この分野の第一人者である一橋大学名誉教授の中村喜和氏と元毎日新聞のモスクワ支局長の飯島氏が参加されることになり、ほっとした。これで山口氏の案内も無駄にならずにすんだ。そして私は最高の解説者のもとではじめての戸田訪問という贅沢に恵まれた。
戸田訪問から数日して山口氏からのメール相談があった。「7月23日に戸田港祭りでロシア人供養祭があります。パレードでプチャーチンの役をやってくれるロシア人、いませんかね。」戸田で病死して故国に帰ることが出来なかったロシア人水兵、2名のために港祭りの最初に供養が行なわれるという。知り合いのセルゲイさんにそれとなく話した。「23日、戸田の港祭りに来て、プチャーチンの役やってみない?」予想通り「面白そうだ。交通費出してくれたら行ってもいいよ.」と乗りのり。そして、伊豆日日新聞に載ったセルゲイさんの勇姿をご覧ください。住民や観光客から握手やサイン、写真撮影を求められ、大人気で祭りも盛り上がった。
数人の僧侶による読経、参加者全員のお焼香、ロシア人墓地への献花と、宝泉寺での供養祭はりっぱなものだった。戸田の人々のロシアに寄せる素朴で自然なおもい、また「我が魂、永遠にこの地のとどめおくべし」としたプチャーチンのおもいを、今一度見つめてもよいかもしれない。この先、手弁当で戸田にかけつけてしまうかもしれない予感がする。

被災地-塩釜-を走る

「この辺り住宅地で、浜辺まで家があった所です。家の土台だけ残っているでしょう。」教官が車の路上研修で説明してくださるが、1週間前にハンドルを握ったばかりの仮免初心者としては、左右の景色なんて見る余裕はなく、ひたすら正面を見つめ、しがみつくようにハンドルをにぎっている状況だ。それでも瞬間的に左右に目をやると夏草が茂った平地にコンクリートの塊が見え隠れしている。ネットで探した塩釜の自動車学校の『熟年合宿コース』に入校した。同じコースに入校したのは私一人。合宿生はホテルに4~5人いるが、皆20代の若者。朝から夕方まで彼らと一緒に運転実習や学科をこなしていくのは正直きつかった。

そろそろ休みはじめた脳細胞や反射神経をたたき起こさざるをえない。細胞や神経も突然のことで、さぞかし驚いたことだろう。特訓のかいもあり2週間余で卒業証書を手にした時は、さすがに感激した。

被災地にあたる東北太平洋側のほとんどの自動車学校が休業のなかで塩釜の自動車学校は41日から再開していた。きっと高台にあるのだろうと推測してきてみたところ、学校も宿舎のホテルも海から数百メートル離れているだけで、海抜ほとんどゼロ地帯。地震、津波の被害を諸に受けていたが、津波が10~20メートルに達した東隣の石巻、西隣の多賀城に比べれば1~2メートルですみ、甚大な被害には至らなかったとのこと。松島湾の250以上におよぶ島々が防波堤の役目を果たしていた。授業の合間に入った喫茶店で地元の人の会話に耳を傾けると、「まだ、誰それは行方不明だよ」「誰それは、誰それを助けようとして流されてしまった。」「家は住める状態でないので子供は親戚に預けている。」とか、非日常的な状況をまるで日常的な事のような口調で話していた。「でも、3ヶ月以上たって、みんなの表情、変わってきたね。被災者の表情じゃなくなったよ。」という声も聞こえた。 ~被災者の表情でなくなった~ ということは、現実に被災を受け、被災地で生活してきた人にしか言えない言葉だろう。

 

被災地に滞在した20日で、いろんな職業の日本の男性の姿が目立った。いつもは存在すら意識しなかったのに。塩釜市街ではまだ半分くらいの信号機が壊れたまま。主要な交差点では警察官が旗と笛で交通整理をしている。背中に「神奈川県警」と書かれたタスキを掛けている。塩釜市の交通整理は神奈川県警の担当で、市内に宿泊場所が確保できないため2時間近くかけて山形県からバスで通っているとのこと。宿泊しているホテルには一般客もいるが、復興支援隊のいろんな団体や研究者らしい男性も多い。彼らは朝早くホテルをでて、夕方戻ってくる。動作がきびきびしていて一様に日に焼けたいい顔をしている。仕事は大変だろうが、使命感を持って働いている感じがする。仙台から石巻までの仙石線に乗ってみた。正確には高城駅までしか開通していないのだか。日本三景「松島」は途中駅である。日曜日の午後、普段であれば女性を中心の観光客でにぎわっていることだろうが、普通の観光地とかなり違う雰囲気だ。男性客が多い。

グループであったり、一人旅であったり、年齢はさまざまであるが地図とカメラとリックサックでスニーカーなのが、ほぼ共通している。仙台行きの車内は8割がこのような男性達だった。

被災地でボランティア活動をするわけでもない。大震災は普通の家庭があって、普通の会社に勤めている男性たちの心にも、時間を作って被災地を訪れてみたいという「なにか」を生じさせたのであろうか。

塩釜は寿司で有名だった。ホテルの近くの「すし哲」という店に入ってみた。寿司職人の握り方は名人芸をみているようだ。きっとこの街には誇り高い、プロの寿司職人が沢山いるのだろう。今まで食してきた寿司のなかで最高に美味しかった。震災から50日目に開業したという小体な店だったが、早目の時間とはいえ、客は最後まで私一人だった。ケチケチしないで、店の景気づけに「特上」を注文すれば良かったと後から悔やまれた。

 

初めての運転で、被災地を走った2011年の夏は、忘れられない。

 


自動車学校からの景色
【自動車学校からの景色】大型量販店と山の間に、山の半分くらいの高さの”がれきの山”が今も残る。

ブログの再開

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「ロシアン・ビューティー」無事を書き終え、5月に書店に並びました。と云いたいところだけれど…。街の書店では、ほとんど見かけない。たまにショッピングセンターに入っている大手書店系で、棚の上方にシリーズとして並べられている。60数ページしかないので、立てると背表紙はほとんど読めない。    編集した出版社の担当者曰く。「ロシア物の書き手は結構いますが、読み手がいないんですよね。」わかる、わかる。著者が無名で出版元は学術書や地図など定番ものか、オカタイものが得意、また発行元のユーラシア研究所というのが知る人は知るが、知らない人は掠めもしない研究所だ。著者が宣伝しないで誰が買ってくれるというのだろう。数年に一度の年賀状のやりとりだけの知人、個人的関係の強い取引先、友達の友達などにずうずうしく案内状やメールを送りつけた。思いがけない人から連絡いただいたり、お祝いしていただいたりで世界が広がった数日だ。 書くより、読むほうが数倍も楽しいことも実感。有名作家も好きなように書きたいことを書いて出版している訳ではないことも判った。本だって売れてなんぼの世界。ベストセラーは何処かで、誰かが仕掛けているということもあながち作り事ではない。版元を通じて正式ルートで扱われてから書店に入るたびに思う。どうせ書くのなら平積みされるようなものを書かなければつまらないではないか。コーカサスまで訪ねたのだから小説の神様、レールモントフの霊でも乗り移ってくれないかな。とにかく、ブログを再開する事にする。読まれても読まれなくても、ブログでグダグダ書き連ねているのが関の山だろう。

↓本の詳細は以下のリンクをご覧ください。↓

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4885959896.html

● おばあちゃんの夏-2010年

8月20日過ぎごろから9月中旬くらいまでをロシア人たちは「おばあちゃんの夏」と呼ぶ。

なにか懐かしく優しい響きの「おばあちゃんの夏」、今年はさぞ待ち焦がれていたことだろう。

モスクワに着いたのは、まさに「おばあちゃんの夏」の最中、9月4日だ。今夏、世界のニュースとなったモスクワの猛暑、森林火災、泥炭によるスモッグや異臭が、信じられないような爽やかな空気のなか、青空が広がっている。ソ連時代そのままに暗い、遅い、間違いが多いという悪評の国際空港シェレメチェボはやっと新しく建てかえられ、新ターミナルで入国手続きをすませた。これで普通の国際空港になるのか、ソ連も遠くなるなとしばし感慨にふける。

フライト毎の荷物受取レーンの番号が表示される。到着便は少なく、同乗者と一緒に荷物が廻ってくるのを待つ。レーンが動き始めるのもかなり時間がたってからだが、次々に廻ってくる荷物のなかに私のスーツケースはない。そのうち表示されたレーンが止まってしまった。私を含め荷物をうけとれなかった4~5人が残された。うち1人がかなり離れた別レーンの脇においてある荷物の山から自分の荷物を見つけ出した。見覚えのある私のスーツケースも見える。レーンの上の表示版はイスタンブール。そこからの到着便と一緒になって廻っていたらしい。不覚だ!

空港が新しくなったので、システムや人の作業も一新されたかのごとく錯覚してしまった。

悪気はないのだろうけど、すべて自分に都合よく、自己流に解決してしまう。それもかなり大雑把に。それがロシア流だ。多分成田発のフライトのレーンが、一杯になったので廻っているコンベアに適当に下ろしたのだろう。「なーに、同じ空港内だからさ。」とか。

建物だけが新しくなったのであって、人やシステムはソ連時代のままであることがわかり安心した。日本のようにすべてがスムースに流れたら、ロシアに来たという実感をどこで味わうべきか。迎えの者に荷物の受取の手違いを話しても、とくに驚きも心配もしない。

そんな話題、天候の挨拶と同じ程度のものだろう。到着早々、空港で頭をロシアモードに切り替えられたのは幸いだった。それから2週間、知人の紹介のアパートで「おばあちゃんの夏」の季節を満喫した。帰国した日本はまだ残暑のまっさかりだった。

 

ちなみに何故「おばあちゃんの夏」というのか。7、8月が若者の元気な季節の象徴だとしたら秋から冬にかけては人生で老いていく季節にたとえ、8月の終わりから9月中頃までをそろそろおばあちゃんの季節が近づいてきますよ、という意味でそう呼ぶのかと思っていた。

ちょっと、いや、かなり違っていた。7、8月は畑で野菜、果物を育てるため朝から晩まで外で働き、8月の終わりから収穫して、9月にかけて収穫した野菜、果物を漬けたり、ジャムを作ったりと家の中でおばあちゃんが活躍する。つまりおばあちゃんが家で活躍する季節という意味だそうだ。季節の移りか変わりに諸行無常を重ねたがるのは日本人の発想か、ロシア人のように素直に現実的に移り行くままの暮らしを受入れるという発想もハッピーかもしれない。

 

<お知らせ>

もし勝手な『社長の独り言』を読んでいただいた方がおりましたら、感謝しつつ、しばしのお休みをお知らせします。お休みは某出版社から来春出版予定の「ロシアン・ビューテイ」(仮題)が脱稿できるまでといたします。

 

● 『打ちのめされるようなすごい本』という本

身内のすすめもあって、お盆休みに12日の人間ドックをはじめて体験した。検査のあいま、あいま、読むには手ごろかと思い、米原万理の書評集『打ちのめされるようなすごい本』を持参した。1冊について1ページからせいぜい3ページの書評の10数年間にわたる集大成であるが、縦横にまな板にのせる本の多様さ、書評のユニークさに打ちのめされ、MRTやエコー検査、胃や腸の内視鏡検査の初体験が翳んでしまった。

 

米原万理さんは、語学界では誰もが知る一級のロシア語同時通訳者であり、数々の賞をものにした文筆家でもある。20年ほど前、まだ通訳として活躍しているだけで、その名が一般に世に出ていなかった頃の彼女を一度見たことがある。

ロシア語通訳協会が主催のセミナーがあり、講師の1人は某大手商社のモスクワ駐在員だった。講師の体験談が終わったところで米原さんが質問した。「貴社は、クーデター後のロシアの大型プロジェクトのほとんどを受注していますが、なにか特別なロシア政府とのルート、あるいは見返りを提供しているのですか?」と。講師がなんと答えたかは覚えていないが、人が一番ききたくて、しかもきけないことを大きな目をくるくるさせて、ズバリ、サラリと言ってのける大胆さ。それだけで以来、「米原万理」という名前と、ふっくりした体形、ソバージュの髪型、いたずらっ子のような目が焼きついてしまった。その印象は、今回、病院で読んだ書評本の内容と一寸の違いもない。本人が癌の手術を終え、その間、同じ病院に入院していた母親を亡くしたことも、あの時の質問のようにサラリと1行だけで書いている。

 

「X月X日 予定通り入院6日目に退院。直前に母が息を引き取り、一緒に自宅に戻ることに。」

194ページ)。

 

2006525日、56歳の米原さんの死は、時差を越えて同日にモスクワの関係者に知れ渡った。私も、モスクワで日本人と同乗していた車中で聞いた。自分の誕生日でもあり、忘れられない日付となっている。本人には迷惑かもしれないけれど、米原万理はロシア語界には珍しいメディアに注目されるスターだったと思う。

彼女の書評を読んで、早速読んでみたい、またもう一度読み返したい本を選び出したら91冊にもなってしまった。なかには書評の方が面白かった、なんていうのもあるだろうな。

● モスクワの夏

梅雨や猛暑を避けて、モスクワに滞在している幸せを、密かにほくそ笑んでいたというのに今年、モスクワは観測史上初めての厳しい暑さにさらされているらしい。モスクワからのメールや電話からも熱気と、悲鳴が伝わってくる。悲鳴は人間だけでない。連日、ハードワークを強いられるようになったエアコンも、慣れない稼働時間に悲鳴を上げ、故障してしまうようだ。何しろモスクワのなにもかもが、寒さに慣れていても、暑さの対策は講じてない。

 

モスクワの夏は過ごしやすかった。空気が乾燥している分、日差しは射すように強い。が、日陰に入れば、冷風機の風に当たったように体中から熱気がひいて涼しくなる。午後から夕方にかけて30分くらいスコールのような雨がある。公園の木陰や街路樹の下で雨宿りをしていると、空気がどんどん下がってくる。雨が上がると打ち水をしたように、さわやかだ。水溜りを避けながらも、足取りは軽く弾んだ。夕方とはいえ、まだ4、5時間は明るい。時間をかけて夕食の準備もできる。散歩もできる。友人と会って、カフェでおしゃべりしたり、買物したり。7時に開演のバレエやコンサートにも出かけられる。

 

しかし、今年は日陰効果も、スコール効果も効かないらしい。郊外では、地面に堆積している落ち葉が熱で燃え始めているという。その煙が風向きで町の中心部まで流れてくるので視界も遮られるとのこと。泥炭の燃える煙、車の排気ガス、渋滞のクラクション、次々と建設される高層ビル群やアスファルトからの照り返し。あのさわやかで、緑豊かな中に、ゆったりと時が流れたモスクワの夏は何処に行ったのだろうかと思う。

 

現実に戻る。エアコンや扇風機が飛ぶように売れているという。ひょっとしたらわが社が輸出している日焼け止めクリームも、売れてないかしら?と期待してしまう。

長くて寒い冬を過ごすロシア人達は、日光が大好きだ。日焼けすることイコール冬を健康に過ごすことだと信じている。数十種類輸出しているスキンケアの中で、「美白」効果をうたった日本の日焼け止めクリームは売りにくい。ロシア人に白い肌は当たり前。見方によっては病的にみえるらしい。チョット日焼けした肌が健康的で、おしゃれでリッチという印象は抜きがたくある。今年の猛暑で、肌を痛めたロシア人達が紫外線の弊害を実感して日焼け止めクリームを求めてくれたら、せめてものメリットだ。

● リゾートしらかみ、五能線

青森で、年初から決まっていたロシアビジネスセミナーがあり、丁度、同時期に秋田での所用ができた。隣県だからと、青森⇔秋田の日帰りを試みる。

時刻表と現地での滞在時間を計算すると、かなりの強行軍となる。隣り合った地方都市でもアクセスは甘くない。関係者からは、あきれ気味で、羽田に戻って出直した方が早いかも、といわれた。

自称「乗り鉄」は、そんなつまらないことはしたくない。在来線で行く、往路、復路は出来るだけ同じルートを通らない、というのが原則。日本海沿いを走る東能代⇔川部間の五能線に、いつか乗ってみたいと思っていた。こんなチャンスはめったにないだろう、とりあえず切符を予約する。2週間前というのに、全車指定席の<リゾートしらかみ>は既に海側とは反対の3席しか空がない。青森⇔秋田間、奥羽本線特急では2時間半であるが、日本海側をぐるーっと廻る五能線では5時間半かかる。

往路を奥羽本線にし、仕事を終えて午後の復路に五能線に乗って日本海の旅を楽しみたかった。が、青森、秋田の両駅から午後に発車する<リゾートしらかみ>はない。夫々の駅から午前中、もしくは午後一番の発車のみである。したがって、秋田日帰りで青森に戻るには、往路の朝の青森で<リゾートしらかみ>に乗車するしかない。8時に発車して、秋田着は13:30分である。売店でお弁当、飲み物、ツマミを買い込み、入線してきた<リゾートしらかみ(青池)>に乗り込む。車両は席の前後がゆったりとスぺースがあり、座席も広い。上の荷物棚の下あたりから、座った席のひざ下まで窓も大きくあいている。

梅雨時の平日に旅する乗客の顔ぶれを見回したところ、ほとんどがJR東日本の「大人の休日倶楽部」ジパング族であることがわかった。男性65歳から、女性60歳からJRの切符が最大30%引き、その他にも諸々の特典がつくらしい。駅に停車するごとに「ジパング」の宣伝が目に付く。JRはうまいこと考えたものだ。津軽半島に入ると車内で津軽三味線のライブがはじまる。梅雨の合間の明るい爽やかな風景に、荒々しく重い三味線の音色は場違いな気がする。もっと演歌的な風景を想像していたのに、窓外に走り去る家並みはどれもりっぱで、屋根もカラフルだ。乗車1時間半の「鯵ヶ沢」辺りから「あきた白神」までの約2時間が、撮影ポイントの海沿いの風景が広がる。荒波にあらわれてできた奇岩郡、ポスターでもお目にかかるニッコウキスゲの咲く浜辺などシャッターチャンスのポイントでは電車も速度落とすので、下車しなくても十分堪能できるし、山側の席でも前後に広い展望車が付いているので撮影には不便しない。カメラの趣味はないが、乗客の空気に合わせて用意した。が、滅多に使わないため、日本海にでる手前の「五所川原駅」で電池が切れてしまった。これ以降は、頭に焼き付けていくしかない。5時間30分は退屈することもなく、秋田駅に到着した。30度を越す秋田で仕事を片付け、17時30分の奥羽本線で予定通り青森に戻る。日本鉄道路線の北の一部をマーカーで塗りつぶすことができた出張だった。

 

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「五所川原駅」のジパングの宣伝、これ以降は電池切れで最後のフィルム

● 「来ロ研」

初夏を迎えた大学のキャンパスは、さわやかな風と光に輝いている。ビジネスの真っ只中に身をおいてきた者にとって、大学のキャンパスはただでさえ眩しい。

 

2ヶ月に一度、第1土曜日の午後、青山学院大学で開かれるフォーラムに久しぶりに出席した。「来ロ研」とは略称で、正式名称は「来日ロシア人研究会」という。何人の人たちで、いつ頃から、どういう経緯で始まっているのか、全く知らない。日本に来日したロシア人たちの足跡を辿り、そこから日ロやその他の国々との歴史を明らかにしていくことが研究テーマであろうが、特に連続的なテーマを追うわけでもないので年に1、2回の出席でも居心地は悪くない。勿論、正会員の方がたは、真剣で真面目である。毎回、ほぼ3人の方が1時間くらい報告をして、お開きとなる。3年前、「亡命ロシア貴族とファッション」というテーマで報告をすることを勧められて以来、ご案内をいただくようになった。

会の性質上、大学の現役の教授は勿論、退官された著名な方、学生、OB、かって満州という国で暮らした人、在日ロシア人やロシア人2世、また日ロ以外の国の方が参加されることもあり、国籍、職業、年齢まちまち、30~50人ぐらいが集まる。しかし、失礼を承知で、今風の表現では、かなり「オタク」的な会だと思う。

 

この「オタク」的な会の名前と、会で最も親しくさせていただいているOさんの名前を6月3日号の「週刊文春」で見つけた時は、正直驚いた。フランス文学者の鹿島茂氏が「私の読書日記」というコラムで「来ロ研」のこと、Oさんの論文のこと、をとりあげていらっしゃる。早速、札幌にお住いのOさんにメールで連絡。彼女は、日本でもっともメジャーといわれる週刊誌にご自分の地味な論文がとりあげられたことを非常に喜び、たぶん「来ロ研」の他のメンバーは誰も知らないでしょう、と感謝しきり。

ちなみに6月の報告会では、モスクワの神学大学に留学されていた方の体験談、また、最近、名古屋のハリストス正教会を設計した建築家のお話があったが、興味深かったのは、日本学の元祖ともいえるセルゲイ・エリセーエフと交流していた国際問題評論家、倉田保雄氏のお話だった。「エリセーエフ」といえば今でもサンクトペテルブルグとモスクワにある帝政時代の豪奢な食料品店で馴染みはある。が、このロシア大富豪の孫が、明治時代、漱石の門下生として日本に滞在し、亡命後はパリ日本館の初代館長となり、後にはハーバード大学で日本学の教鞭をとっている。テープでエリセーエフさんの日本語肉声も聞かせていただいた。日本滞在中の着物姿の写真も、明治という時代背景のなかで様になっている。なによりも友人、知人にあてた葉書や書状の流麗な筆さばきと、丁寧で簡潔な文面に見ほれてしまった。専門的なことは判らないが、小泉八雲からドナルド・キーンの間にセルゲイ・エリセーエフが語られないことは残念に思う。

 

閉会後、三々五々、近くの中華料理店での懇親会に足を向ける。広くない店内での気取らない親しさや、オープンな話し声に、知らない人が見たら商店街の寄合いかと思うだろう。

しかし「来ロ研」は私が想うよりも、ずっとアカデミックで、高尚で、後世の日ロ史に残る宝物なのかもしれない。数ヶ月に1回、ビジネスセミナーとは全く異なる世界の新鮮な空気を吸い、別な細胞が動くようだった。

 

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エリセーエフ氏自筆

 

 

● 「筍」体験

連休に来日にした2人のロシア人女性を案内した。2人とも30代後半、1人は10年前に会社を設立し、数名の社員を抱え、日本との貿易や音楽関係のビジネスをしている。学生時代の留学経験を経て、来日は数十回になる。もう1人は彼女の同級生で、初来日である。酒飲みで、ぐうたらの旦那と離婚し、娘を育てながらバリバリ働き、自力でモスクワ中心部にアパートを、郊外に別荘を手に入れ、今では気儘に海外旅行を楽しめる身分だという。ロシアでは、30代ぐらいで彼女たちのようなサクセスストーリーは珍しいことでない。ヤル気とアイデアさえあれば、ビジネスチャンスはいくらでも転がっていた。安易に始めて失敗する人もあったろうが、少なくとも私の周りの、特に女性たちは5~15年でそれなりにビジネスを育て上げている。

今回の来日で2人が、最も喜び、印象に残ったことは「筍」体験だった。

ソ連崩壊から1995年頃までは、成田に到着するなり、近代的な空港のシステム、日本の風景、建築、食べ物なんでも感激してくれた。しかし、今では一般的な日本の情報はテレビ、新聞などのメディアを通じて年金生活のおばさんでも知っている。

せっかくの来日である。何か一つでも「日本」を発見してほしいと思う。来日する人にもよるが、今回は、六本木ヒルズから見下ろす東京の夜景よりも、北海道の「ザ・ウインザーホテル洞爺」のイタリアンよりも、初めての筍堀と、筍の味が衝撃的体験だったようだ。

 

「世界はグローバル時代である。グローバルでなければ生き残れない。グローバルとは境がなく、フラットのことである。文化、伝統、生活、慣習の違いなんて関係ない。」世界戦略を掲げるあるアパレルメーカーの社長さんがテレビで語っていた。そうだろうか?日本のものつくり、技、サービス精神を知ってもらうのは必要だ。しかし、日本のビジネスモデルを、豊かさに憧れる人々の欲望を逆手に、押し付けるのはどうであろうか。一見、非効率、不合理のなかにも、夫々の国でしか育まれないものもあるのではないかと思う。

 

考えてみれば筍も手のかかる面倒な食べ物である。野生の動物にかじられないうちに、朝早く、僅かに土から覗いた穂先を見つけ、慎重に掘り起こしていく。皮をむいて米のとぎ汁で灰汁を抜き、夫々の部位を生かす調理法で味付けしていく。外国人に筍の味がわかるとは思わなかった。竹林のない国から来た客人は、若竹煮の優しい味付けに感激しながらパクパクと口に運んでいた。かといって、筍がグローバルな料理になりうるであろうか。筍のほうが驚いて、恐縮してしまうだろう。筍という不思議な食べ物は、やはり巡りくる日本の春のなかで出会いたいと思う。ロシア人の1人がつぶやいた。「貴重なものなのね」と。

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